朝一で川越氷川神社に向かう。
改修工事をしていて、シートで隠されている大きな建物があった。それを見るのは諦めて、大きな鳥居と見物し、お守り売り場をぐるっとまわった。
そして小さな川のような場所で和紙を水にながすおまじないをして、穢れを水にながせたらしい。
ここへ来たのは、名物の鯛みくじがお目当てだった。鯛の張り子の切れ目に、おみくじが入っている。鯛のおみくじは大量に箱に入れられていて、参拝に来た人は釣り針のようなものを垂らして鯛みくじをひっかける。狙って垂らしたあたりから針は弾かれて、別の所で埋もれて見えなくなりそうだった。その時、鯛みくじが針にひっかかった。鯛の張り子はコロンとして可愛らしく、今も自室の机に飾ってある。
おみくじに書いてある和歌のような昔の言葉は、内容がほとんど分からないけど好きだなと思う。昔の言葉は格好よく、心地よく感じる。ただ単に自分の知識不足という話なだけなのだけど、言葉外のありとあらゆる感じ取れるニュアンスがゼロに近くなるからだと思う。
生活をする上で必要な業務上の言葉も、普段耳にしたり自分も使ったりする素朴で粗雑な言葉も意味が詰まっている。言葉自体の強さも、それに潜む分かりきったとされる秘密も、その背景から滲み出る人間の感情も、頭の中で時々喧しい。それらは自分の口から出る時も、分かってはいてもあふれ出て止められない。だけど和歌や和歌を現代語訳した美しい言葉は、現代のルールと少し遠くに感じる。どんな誰の言葉だかわからないまま、それがただある言葉として軽やかに受け止めることができるのだと思う。
心正しくなければ災があるとそこには書いてあった。
心正しくいられたことが今まで果たしてあっただろうか。
それはともかく、この混じり気のないシンプルな金言がこの日、心に残ったのだった。